dekadanのブログ

ヒエログリフよりも難解な走り書き

またいつか

昔、マルコヴィッチの穴という映画があった。穴に入るとマルコヴィッチの頭の中に入れて、数分間本人になれるというもの。その穴にマルコヴィッチ自身が入ってしまうという映画。荒唐無稽に感じるけど、自分を自分たらしめるものの正体を見たような気がした。人の数だけ実は自分があるのかもしれない。Doppelgängerとか言うけれど、あながち真相に近いような表現なのかもなぁ。今年予定しているライブが全て終わってしまったから、これから静かな生活を送ろうと思う。一日一日を丁寧に過ごしたい。ほそぼそと歌を作り続けていけたらいいなと思う。またいつか会いましょう。

加茂のライブを終えて

仕事が終わってから加茂に向かう。さよパニと太郎さんが待つLJstudioへ。三条市で仕事をしていたかず君も駆けつけてくれた。何を歌おうか全く決まってなかったのだけど、昔加茂に住んでいた頃の歌を歌いたいと思って、君と生きた時代と思い出のこの町からはじめた。歌っているうちに懐かしさが込み上げてきた。25年前の自分に訴えかけるように丁寧に歌った。そして長野へ転勤した時に作った漁火慕情。屋根裏の魑魅魍魎。梅花団の愛と死のメモリーと、こころ。そしてかわいい会話。ひとりのワルツ、喝采20世紀。アンコールははじめての詩。やっていてとても楽しかったし、嬉しかった。こんな自分でも少しは歴史があって、時間軸を行ったり来たりしながら森田花壇という名前の舟に揺れていた。女は海で男は舟らしい。LJスタジオの額縁に書いてあった。さよならカンパニー、神田太郎さんのライブも素晴らしかった。太郎さんは12枚目のアルバムを引っ提げてのライブだった。アルバムを買うの忘れていた。僕も作りたくなった。しかしまだ構想に整理がつかない。当分さきかなぁ。。

さよならカンパニーの不動の世界観はどこからきているのかなぁ。余計なものを全て削ぎ落としたシンプルなサウンドでいて、いきなり激情的にもなったり、ふわふわ浮いていたり。曲の構成がうますぎる。

最後はみんなでセッション。ボブディランのアイシャルビーリリースド。はじめてさとにいの歌声を聴いた。貴重な体験だった。

頭痛治った

小春日和。桜もいい感じに咲いています。朝から万代に行ってお目当てのものをゲット。帰りはやすらぎ亭沿いに車を走らせる。桜並木が綺麗。水色の空と薄いピンクが溶けるように広がっていた。家に帰ったら少し歌の練習。明日は何を歌おうかな。たくさん曲があるものだから。選ぶのが大変だけど、なんだか嬉しい。この歳になっても歌っていられることを素直に喜びながらポロロンとギターを鳴らす。歌をやっていて良かった。詩を書きはじめて良かった。あの時の衝動が今に繋がっている。大勢の人と出会った。そして別れた。出会いの方が多かったかな。昔遊んでいた友達に連絡をとってみる。今は家族と幸せに暮らしているみたい。ライブには来れないと言っていたけど、幸せそうで僕も嬉しくなった。時代は変わってゆく。みんな歳を重ねて自分のいる片隅を照らしている。寒い冬が終わった。新しい春です。この春は一回だけ。あの時の春も一回だけだね。薔薇の蕾は早く摘もう。今しかない人生を愛そう。いい時も悪い時もあるけれどね。喜びを分かち合える人たちと精一杯呼吸をしよう。悲しい思い出もいつか薄れるよ。こんがらがった気持ちもいつかほどけるよ。君は笑顔が似合うからね。はははと笑って水平線を掴んで欲しい。僕は僕で元気にやってるよ。たまに曲を作って、虹が出れば空を見上げて詩が浮かんだら書き留める。黄昏た海岸線を歩きながら涙浮かべて歩いていたことを思い出す。波打ち際で黙って座っている恋人たちを横目で見ながら、登り始めた月を追いかけた。僕の歌を好きになってくれてありがとう。と言いたかっただけだよ。ちゃんちゃん。

こうやって

こうやってブログを書くことで、ギリギリ森田花壇を演じていられる。森田花壇として歌を歌いはじめていったい何年たったんだろう。人前で歌うということはエネルギーが必要だ。もちろん歌を作るのにも相当なエネルギーがいる。枯渇していくんだよね。独りでやっていると。だから好敵手は必要だし、虚構のドラマ要素も手助けしてくれる。そうやって自分を騙し騙して0から1をつくる。それを馬鹿らしく感じてしまったら終わりだ。歌っていても体重は乗らない。それが僕の性質であり、多分真実だ。

風と虹

春ですねぇ。お花見といきたいところだけど、いかんせん時間がない。仕事に終われる日々が続く。しかし、明後日は加茂市でライブ。ほのぼのとした好きな町にまた行けると思うと、なんだかもやもやも晴れていく。明日は何を作ろうかな。唐揚げ、パスタ、ドリア、餃子。家族に料理を作ることが小さな幸せでもある。歌をつくって誰かに聴いてもらうことも小さな幸せです。小さな町でhappyです。小さな自分と大きな世界、その境界線にはいつも風が吹いています。僕の町は潮風。君の町にはどんな風が吹いている。風は砂や種子を運びながら木々の葉擦れを起こして遠くへ遠くへ。桜もいずれ散るでしょう。若葉が茂り色を変えて季節は過ぎていくでしょう。たまに虹を見ることもあるでしょう。心も移り変わるでしょう。悲しい気持ちは胃の中で消化される。水平線に明滅していた漁火の数を数えたこと。自分の愚かさが招いた暗い時代、友人と喧嘩して口を聞かなくなったこと。人の心にも季節がある。皮膚の下でも風が吹いているようです。私は虹になれるでしょうか。指差し笑ってくれるでしょうか。

中村のチーズあられ

中村のチーズあられがどうしても食べたくて会社帰りに原信に寄った。ここ最近晩酌が日課になっている。あまり良くない。新しいアルバムはなんだか気に入らなくなってきたので、とりあえずお蔵入りであふ。四季をテーマにして喪失と再生を描こうと思ったのだけど、難しい。梅花団のオカルトでは再生をテーマして作った。屋根裏の発禁は喪失。この二つの重いテーマを内包させるのは至難の技だ。あといったいどれくらいやれるかわからないけど、死ぬまでには完成させたい。思えば喪失と再生を繰り返して生きてきた。すべては失われてゆく。中村のチーズあられも、人との関係も、Instagramのストーリーはすぐに失われるから好きだ。時間が長ければ長いほど失われたものの価値が大きくなるのは何故だろう。それは自分の世界に取り込んでゆくからだ。失われた時を求めることに一生をかける人は後を絶たない。そして中村のチーズあられを全て食べてしまう。失われたチーズあられはまた原信で買おうと思う。買えないものがたくさんあるから人は歌を作るのかもしれない。金持ちには歌は作れないんだ。

ぺがさす荘

昨日は息子の入学先ということで、帰りに原信に寄ったら刺身をたらふく買わされた。まあ、めでたい日なので、奮発するかということで、財布は煙の重さである。たらふく酒を飲んで早々と寝てしまう。まだ少し頭が痛い。13日のライブの曲をどうしようかなと暗い部屋でダラダラ考えている。ギターなともポロンポロン弾いて、何かいい曲できないかと、時間は過ぎていくのである。時間は待ってくれないのだ。少しくらい待ってくれてもバチはあたらないのにと馬鹿なことを考えながら雨の降る音に、残念な気持ちになる。せっかく桜が咲き始めたのにまたすぐに散ってしまうか今年も。思い返せば毎年すぐに散る。花見なんてしている余裕もないままじじいになっていくのである。友達もそんなにいないし、つまらない日常に面白いことをつくっていかなければなと、自分なりにこそこそとやっているのだが、何にもやる気がおきなくなる時が多くなってきた。何かを好きでい続けるのは妄執に似た心持ちを維持しなければ難しいんだもの。正負の感情が入り乱れて心が疲れる時もある。こうやって時ってやつはそっぱを向いてスタスタと先へ歩いて行くのだ。待ってよと追い縋れば引きずられるようにして齢を重ねていく。ぺがさす荘も5周年を迎えたか。感慨深い。たくさん人が来ていて良かった。玄関口に白い薔薇が咲くんだよね。色々な思い出があるなぁ。いつまでもなくならないで欲しい場所だ。