今日は息子の入学式だった。快晴。桜も少し咲いてきていた。春はあっという間に終わりそうだけど、この瞬間を大切にして生きたい。瞬間の中に永遠を宿せるかが、僕にとっての人生のテーマでもある。古典。短歌、俳句などは何百年も生き続けている。自分の作品が不死になる時、それは瞬間と永遠の邂逅になる。息子の人生の中で僕は生き続ける。そうやって未来へと繋いでいく。僕のおじいちゃんもおばあちゃんも僕の中で歌で、生き続けている。それは愛されたこと愛すること記憶にとどめることになるはずだ。PCの中ではない。体を駆け巡る電流の中で、電子の川に浮かんでいる記憶だ。
続 頭痛
頭が痛い。
今日はぺがさす荘の5周年のお祝いに歌いに行った。そこかしこでできあがっている人もいて、落ち着いて歌うことができた。永遠の河という曲を久しぶりに歌ったけど、歳とってから歌う方がなんか新鮮だった。僕の次に笛を吹いている人がいて、雅楽っていうのかな。すごくうまかった。けど頭痛が再発した。高音に弱いのかな。ライブの前に聴かなくて良かった。みんなお祝いムードでhappyな雰囲気。でも頭痛くてすぐに退散。パピコさんのおでん食べれなかったのが心残り。彼女は凄い詩人だ。詩を書く人が好きだ。知らない人がたくさんいると竦み上がってしまう。しかし頭が痛い。早く治らないかな。
アルパムの制作も少しずつ進めている。昨日は夜喫茶のパルムへ。水戸さんが番をしていると聞いて馳せ参じた。久しぶりにあっこさんとも会う。僕の歌を好きだと言ってくれる。とても嬉しい。今日のライブでイエペのぼうしも歌おうと思っていたけど、やめた。やはり絵本の朗読がないと歌う気にならなかった。
家に帰ってみると子供はお泊まり会。青春を謳歌するが良い。愛する息子よ。
頭痛快方
頭痛が少し良くなってきた。歳をとったらあまり無理をするもんじゃない。自分への戒め。一人一人旅立った。その時の寂寥感を思うと泣けてくる。だからぺがさす荘には感謝している。人はある日忽然と旅に出るものだ。僕も長野に行った。たくさん曲を作って戻ってきた。望郷の歌も愛の歌も日々の歌も未だにbackgroundに流れている。雨が降っている。人は別れる。惜別と表現することが多くなる。先祖が父が母が幾星霜のさよならを繰り返したか。涙が出ればいい方。なんの悲しみも残さずにある日いなくなる。雨音を子供の笑い声を聞いているとふと思う。熱の昂りによって蒸気になる感情はすぐに消える。人と人が出会う時火花が散る。それを花火に置き換えて夏は出会いを懐かしんだ。男と女はその遺伝子の仕組みによって相容れない様相を呈する。あまりにも違う生き物だから。DNAレベルで呼応していれば別。愛し合うか、別れるかしかない。それ以外は規範の上で挨拶を交わすだけだ。
頭痛2
頭痛が続く。歌と絵本第二弾が終わってからしばらくは大人しくしてようと思っていたのだけど、4月はライブ2本決まった。静かに生活を送ることを夢見て4月になる。歌をやめてしまった友人たちは今何を思っているだろう。たまに昔を思い出してギターをポロポロ弾いているだろうか。まあ、人それぞれだからいつでも引退できるし、始めることもできる。一緒に歌いませんかと言ってくれる友人知人がいて、僕は幸せものなんだろう。
本当は5.6年ぐらい前からうっすら思っていたことがあって、自分にはもう才能がないから歌っていても誰も喜んでなんかくれないだろうと思っていた。曲を作る気力も体力もない感じがして、何にもしない日がずっと続いていた。でもね、たまたま喜んでくれた人と巡り会って、僕はまた奮い立つことができた。それは本当に奇跡だと思えたし、音楽をやめていった友人たちの歌を背負って、また山を登ろうと思えた出来事だった。山は険しく足をくじいたし、道に迷いまくった。でも山頂から見た景色は格別だった。人はある時、突然の出会によって生まれ変われると思った。僕にとってはとても大切な出会いだったんだ。必ずしもお互いがそう思ってはいないだろうし、一方的な思惟であるが。
時は無情だ。心に刻まれた記憶も風紋のようになってしまう。仕舞いには砂に埋まるだろう。人の心はどこにあるのだろう。心と思考は違う。記憶はUSBに保存できるけど、心は保存できない。テクノロジーをもってしてもダメだ。心は至る所にあって、どこにもないものだ。大きすぎるし小さすぎる。なんかなぞなぞっぽくて探したくなる。とんち?