戒め
曲を作りたかったので、ブログは書いていなかった。ブログを書いている暇があったら歌を作った方が良い。歌うたいは。
人気者になりたいのなら書いた方がいいのかなぁ。
漁火慕情
ブログさぼってしまった。
ほとんど誰も見ていないから好きなことじゃんじゃん書こうと思います。
まず、加茂市のLive模様をInstagramに投稿してみた。自分で動画を見ると、はぁー、歳とったなぁという印象。でもまだ歌えているなぁと少しやる気が出たりする。いいねとかもらうと嬉しいな、単純に。僕はとても単純で、少しでもほめられるとやる気がでるタイプ。顔には出ないけど、心の火がぼっとついてしまう。人を操るのが得意な人にはホイホイと操られるタイプかもしれない。自分の感情を表に出すのが苦手だからいつも歌にしてきたのだと思う。年齢を重ねてもそれは変わらない。変わるものと変わらないものがあって、その人の性質はまぁ、変わらないと思う。宗教か何かにハマらない限り、DNAの設計図は頑強にできていると思う。歳を重ねた父親を見ていると本当にそう思う。父親は寡黙で頑固で時間にうるさい。僕もきっとそうなんだろうな、他人から見ると。母親はわがままで気分屋で浪費家だ。僕もきっとそうなんだろうな。他人から見ると。両親の悪いところだけじゃなくて、きっといいところも設計図に書かれているはず。そう思って真摯に生きていくしかない。自分の説明書ははなから目の前にあったってことだ。両親からしてみれば、僕を見るたびに昔の自分と重ねて幾つになっても心配してくれるんだろう。自分たちがいなくなったあともちゃんとやれよ。と心の中で思ってくれている。大丈夫。長い長いDNAの一人芝居。無縁仏になるまで続く芝居だよ。僕は一回、母親に捨てられたけど、父と祖母がずっと寄り添ってくれた。僕にとっては祖母が母親のようなものだったな。だから祖母が亡くなった時、僕は涙が止まらなかった。母が帰って来た時、嬉しかったけど、僕の中では母は死んでいた。愛は悲しい歌声であった。
ふるさとがこんなに好きなこと
母に伝えたいだけなのかしら
生んでくれてありがとう
言いそびれていたことを思い出す
「漁火慕情」より
煙になる前に
4月、終わるね。今日は髭剃りと歯ブラシを買いに行く。原信で今夜の食材。セブンでアイスコーヒー。家に帰り頓挫していたアルバムの制作を進める。どんな作品ができるかは自分でもわかってないけど、少し納得のいくものがちらほら。突き詰めればキリがないのが芸術で、突き詰めすぎると死んでしまう。バランスが大事よね。時間は有限だからさ。1人きりで部屋にこもってああでもないこうでもないと思索する時間は幸せだ。何処までも自由。自分が作りたいものをつくるという行為はやめられない。煙草と一緒だ。夕飯はドリアと油揚げ。ビールが進む進む。のち、ワインをグビグビ。出来上がってしまった。もう何も考えられない。毎晩こうやって酔っ払って気付けば朝になるを繰り返している。そのうち気付けばいなくなっている。自分がいない世界。見てみたいなあ。自分の体積がなくなるから少し歪んで見えるのかしら。いずれ煙になります。今のうちにやっておかないと。
長い夢のようだね
昨日は18時半に寝て、3時半に起きた。これはもうおじいちゃんを通り越している気がして来た。新聞配達の人ですか?と問われてもおかしくないサイクルだ。ただ、夕食を作ってお酒を飲むと眠くなるからそのまま布団へ直行しているに過ぎない。家族も少し僕に対してビビってきていると思う。お父さんもう寝たの?と心の中で思っているに違いない。しかし、寝てしまうのだ。眠いから。春眠暁を覚えずと言うが、春眠暁だけ覚えるだ。もう意味がわからない。ごめんなさい。今日は魚沼へ出張だったのだ。高速道路を駆け抜ける。高速って退屈。
ここ最近新しい曲への情熱が薄れている。歌と絵本から何かやり切った感が否めない。何か新しい刺激的なことをやりたいと何処かで思っているのかもなぁ。常に自分を超えていきたい。今日よりも明日へ。連綿とした時間の流れに逆らいたい。同じ歌ばかり歌っていても僕は飽きてしまう。昔の歌をリメイクするのは楽しい。でもやっぱり新しい自分を発見したいじゃない。巳年だからね。どんどん脱皮してするすると藪を抜けて約束の地を目指したいのだよ。全ては自分で全ては他人のこと。いずれ歌えなくなった時、僕が書いてきた歌の譜面はただの紙切れになるだろう。簡単に燃えて灰になるけど、それまでは自分にとって必要とされるものだ。エネルギーが保存されている。この星が見ている長い夢のようだね。その言葉を言うにはまだ早い。
無意識の外側
今日も何も書くことがないなぉ。そういえば職場に山貝家が遊びに来た。子供達もずいぶん大きくなって微笑ましい感じだった。ミカさんは母親の優しさを醸し出し、はるかくんはレトロゲームをあさっていた。うんうん、幸せそうで何よりだ。色んな家族の形があるけれど、僕の家族は僕の歌に守られている。家族の歌をたくさん作って来たからね。それが過去だろうと未来だろうと自分の歌を嘘にしたくないじゃない。っていう願いも込めて。嘘でも本当になってゆくもんだ。僕が歌えば僕の中ではそれが真実になるのだよ。そういうもんだ。威張っているわけではなく歌を歌う人はみんな自分の中の真実を見ているのだと思う。自己完結だけれど。僕の歌には常に過去への憧憬と未来への望蜀が混在していると、勝手に解釈している。君に幸あれというアルバムは前半は虚構、後半は真実を意識して作った。虚構を入れることで味気ない人生の歌はドラマティックに進化する。それを無意識に入れるのがミソだね。無意識の外側には意識があって、その外側にはまた無意識があるのだろう。はぁー酔っ払った。
おやすみなさい
疲れましたね、マリア様
ブログでも書くかーと、息巻いて開いてみたけれど、何にも出てこない。そうだな、僕の幼少期の話でも書こうかな。カトリック系の保育園に通っていてさ、両親が共働きだったから夕方過ぎまでシスターとお迎えを待っていた。敷地内には小さな教会(当時は大きかった)があって、ステンドグラスが綺麗だった。お昼寝の時間になると好きな友達と布団を隣同士にして、ずっとおしゃべりしてたな。「疲れましたね、マリア様」
はじめて舞台に立った時のセリフ。僕はヨゼフ役に抜擢された。卒園の出し物での演劇。三時のおやつはよくこつぶっこが出ていた。もう今は見かけないお菓子。あんまり好きじゃなかった。門の前にクッキー屋があって、そこのクッキーが美味しかった記憶がある。カラメルを練り込んだ香ばしいクッキー。昭和の味。懐かしい。
歳を重ねたな。でもずっと忘れない思い出はたくさんある。そんなものが僕をつくっているのなら、これからも自分をつくる出来事が待っている。そう思うと先の未来が少し明るく感じるし、高揚感が湧くよね。いいも悪いもあるけれど、互いに影響し合って歩いていく。それはもう間違いない。私をつくってくれたのはあなたで、あなたを見つけたのは私だ。忘れないでおこおっと。
私たちは胃である
昨日は豚バラを煮てチャーシューを作り、蒲焼風にしてチャーシュー丼、あんかけかた焼きそばを作る。家族からも美味しいと言われて満足。最近あまりお腹が減らないからご飯を息子に食べさせてそれで満足してしまう。空腹という信号があるように、心にも空腹に似た信号がある。心が渇くと表現した方が良いのかな。全ては己の欲求を満たすために人間は動く。基本動作だ。胃は限界があるから食べ物を入れれば信号が止まる。心はどうだろう。なかなか難しいところだよね。それを綺麗な言葉で言い換えると夢だ。浅ましい心をなんとか隠しながら生きている。心の飢えにより悲しくなったり寂しくなったり、心が満たされると嬉しくなったり、楽しくなったりする。私たちは常に胃である。何かいいことないかと口を開けて空を見上げるのである。私たちはイデア。